あの人だったら
ごきげんよう、ひとりです。
ヒロアカのトガヒミコちゃん。可愛いらしいヴィランです。彼女は、他人の血を吸って悦に浸っている描写が特徴的で、作中でも周りから気味悪がられています。でも彼女の欲求って、血を吸うことそれ自体ではないんですよね。血を吸うことでその相手に成り変われるという能力を持っていますが、血を吸うのはあくまで手段であって、彼女の願望は「好きなあの子になりたい」というものです。
私にも憧れる人はたくさんいて、何度も「あの人みたいになりたい」と思ってきました。スラムダンクの晴子さん、めぞん一刻の響子さん、BLEACHの松本乱菊。彼女たちと比べて自分はなんて面倒くさい人間なんだろうと萎える時もあります。まあそれは創作と現実の違いってことなんでしょう。面倒くささが現実を生きる人間らしさというものなんだと思います。あ、でも、音無響子さんだけは現実を生きる人間かのように面倒くさいですね。
そしてもちろん、現実にも憧れの人は存在します。トガちゃんと同じく「好きなあの子になりたい」と思って、真似してみることもありました。「いいな、好きだな」って思う人だったり、ある人の「いいな、好きだな」って思う部分だったり、とにかく「こうなりたい」を積極的に真似したり取り入れたりしていた学生時代。こういうのを“ロールモデル”って言うんですかね。気づいたら根付いていたこの癖は、何かと人生の役に立っています。「あの人だったら、どう言うかな。どうするかな。どう考えるかな。」そう想像するだけで、なんだか上手く行きそうな気がしてくる。自分の想像するロールモデルはいつだって心強い私の味方です。
らしさ
ヒロアカを読んでいると魅力的なキャラがたくさんいて、みんな違ってみんなかっこよくてみんな好きだなーなんて思わされます。かっちゃんにはかっちゃんの良さがあって、デクにはデクの良さがある。かっちゃんはデクにはなれないし、デクもかっちゃんにはなれない。みんなの良いところを全部どりなんてできないんですよね。至極当然のことなのに、心のどこかで「万人が認める完璧」を求めてしまう。これは自分の悪い癖だなって思います。もしみんなの良さを全部どりする人間が存在するとしたら、それはオールフォーワンってことになってしまいますね。バケモンです。自分には自分にしかない良さがあって、その自分らしさというものを磨いていけばいい。そう気づかせてくれる作品でした。まあでも、デクの努力家なところとか、かっちゃんの勝負時に笑っている姿とか、お茶子の優しい性格とか、そういう良いとこどりはこれからもしていきたいなって思います。憧れの人その人自身に成り変わるというより、その人の良いところを盗んで自分のものにする、みたいな。
心に飼う
自己分析をしていて思うのは、やっぱり自分の欠点ってそう簡単には変わらないってこと。私という人間の性質はもうきっと一生変わらない気がします。焦りやすい、心配性、杞憂。新卒の就活で唱えていた欠点は今も直っていません。ニートになって焦って心がどうにかなりそうだった時も、親友がかけてくれた「こんなにゆっくりしてもいいの?ってくらい、ゆっくりしていいんだよ」の言葉が効いた。何かの作品に触れていても、そういう言葉をかけてくれそうな器と懐の大きいキャラを好きになりがちだと、今になって気づきました。例えば、BLEACHだと平子真子が一番好きです。でもね、こういう言葉を自分で自分にかけられるようになりたいなって思うんです。今までだとこの流れで「じゃあ平子になりたい、自分が平子になろう」って思っていたところなんですけどね。私のこの欠点・性質が一生変わらないとして、多分私は平子にはなれないんですよ。だからその代わりに、「心に平子を飼えばいいんじゃないか」と思いついて。焦って思考が停止した時、心配で不安で仕方ない時、「平子だったらなんて言うかな」を想像する。これでいいんじゃないでしょうか。誰かを理想像と見立てて追い求めるのは自由だけど、もともと自分の持っている性質上向き不向きがあって、理想に近づけないのであれば意味がないし。“誰かになる”っていうのは突き詰めれば自分のアイデンティティが消滅してしまうわけだし。だから、トガちゃんの気持ちは痛いほどわかるけど、「誰かになりたい、誰かになる」というのを一度やめてみようかなって。今日はそんなことを考えた一日でした。
取り急ぎひとりごとまで。