無駄。

ままならないから私とあなた

ごきげんよう!ひとりです。最近は朝井リョウさんの作品にハマっています。桐島、部活やめるってよ『何者』を書いた方ですね。個人的に一番好きな作家さんです。なんとなく、朝井リョウさんの本は、GReeeeNの曲を流しながら読みたくなる『オレンジ』とか。そういえばもう、GReeeeNじゃないんですよね。GRe4N BOYZに改名しましたよね。慣れる日は来るのかな。そんな、GRe4N BOYZの音楽が似合う、朝井リョウさんの作品。エッセイも小説も、勝手にシンパシーを感じてしまうほど私好みの作風。その中でも『ままならないから私とあなた』は、もしかしたら私が自分で書いたんじゃないかって錯覚しそうになるくらい、私の価値観がそっくりそのまま映し出されていました。今回のひとりごとでは、この『ままならないから私とあなた』を読んで、改めて炙り出された自分の価値観を残していきたいなって思っています。

あらすじ。「天才少女と呼ばれ、成長に従い無駄なことを切り捨てていく薫と、無駄なものにこそ人のあたたかみが宿ると考える雪子。すれ違う友情と人生の行方を描く表題作。」裏表紙の内容紹介をそのまま拝借しました。本屋さんで購入の決め手となった二文です。私は自分が雪子寄りの人間であると思っているし、薫みたいな人間にも会ったことがあって、どうしても他人事とは思えませんでした。主人公は雪子なので、それも相まって完全に感情移入できた。でも、多分、薫寄りの人間も絶対に存在して、そういう人が読んだら主人公にイライラしちゃうのかなとも思った。登場人物も読者も、全員含めて“ままならないから私とあなた”ってことです

 

ところで、裏表紙の内容紹介と言えば、小学生の頃の読書感想文を思い出します。何を思ったのか、「裏表紙の内容紹介を書いておけば、なんか、それっぽくなるんじゃない?!」って閃いて、あらすじをそのまま感想文として書いて提出したことがあります。重松清きよしこ。今でも覚えている。“印象に残った場面を絵に描いてみよう!”の欄には、表紙の絵をトレスして提出。まあ、「なんかそれっぽく」はなったけど、なんとも頭の悪い小学生でしたね。もしも今、読書感想文を提出しろって言われたら、ノリノリになって書くのにな。そんな宿題を出してくれる人はもういないので、こうしてひとりごとに書いていくってわけです。

 

無駄なもの

世界に存在する全ての事柄を、“無駄”“必要”かの2種類に分類しようとした時、ほとんどのものが“無駄”のラベルを貼られるんじゃないか。私はそう思います。ほとんどのものは、無くても生きていけると思うんです。例えば、私はドラゴンボールが好きでドラゴンボールのない人生なんてもう考えられないけど、世界にはドラゴンボールを知らずに生きている人もたくさんいる。ドラゴンボールは無くても事が足りるわけで、「生きるために必要なものだけを経験できればいい」と考えるのであれば、ドラゴンボールは“無駄”に分類されちゃうのです。『ままならないから私とあなた』の中で薫が主張するのは、正にこういうこと。薫は、体育の授業は毎回休むけど、水泳の授業には出席します。それは、バスケやサッカーが出来たところで人生の何の役にも立たないけど、水泳はもしも溺れた時のために役に立つから。放課後の部活動も、「頑張ったところでプロになれるわけじゃないのに、どうしてそんなものに時間を費やすんだ」って。「“無駄”なものなんて全部切り捨てて、“必要”なものだけを経験していけばいいじゃん」って、薫はそう主張します。

確かに、そう言われてみれば、もっともらしく聞こえます。日々の生活の中で、中高での部活の経験が役に立つことはそうそうありません。ましてや、浪人期やニート期なんて、無駄そのものと言えるかも。失敗なんてしなくて済むならしない方がいいし、近道が出来るなら遠回りなんてしたくない。だけど、そうやって“無駄”なものを全部切り捨てていくと、私という人間を構成するものは何も残らなくなります。無駄なものこそが、各々の“自分らしさ”をつくりあげていくのではないでしょうか。それに、失敗や遠回りの中でしか得られなかったものもあって、それらを一様に無駄と切り捨てることはできない。無駄なものに意味を宿していくのが、人生なんだと思います。そもそも、生まれてくる意味とか、生きる意味とか、死んでいく意味とか、そういうところまで突き詰めて考えれば、この世界に絶対に必要なものなんてないんじゃないかな。無くても生きていけることを、無くては生きていけないことに変換していく。そうやって生きていくのが人間という動物なのでしょう。そのために、人間には理性が備わっているのかもしれません。

 

かたちあるもの

小学生の頃、クローバーが大好きでした。クローバーがモチーフの文房具を集めたり、シール帳をクローバーのシールでいっぱいにしたり。何故だかわからないけど、とにかくクローバーが好きでした。多分、当時の女児の間で流行っていたんだと思います。はぴはぴクローバーって漫画も人気でした。そんな中である時、親に「クローバー」のWikipediaのページを印刷してもらったことがあって。ただのコピー用紙なのに、当時の私にとっては特別な宝物になったのを覚えています。今はスマホで何でも調べられちゃうけど、当時はパソコンでしかインターネットを使えなくて。それも一台を家族で共有している状況だったので、親に頼らないと自分の好きなものにすらアクセス出来なかったんですよね。自分の好きなものを親に伝えるのだって、恥ずかしく感じる時期で。そんなこんなで印刷してもらったプリントは、ちゃんと読み込んだ覚えもないけど、私の「好き」の証明になった気がしたんです。そういう「好き」で自分が構成されていくのが、子どもながらに心地よく感じました。

好きかどうかは別として、大学受験の参考書に対しても、似たようなものを感じます。参考書は、自分の努力とかその結果とか、そういう抽象的なものを形に残してくれている気がした。だから、書店に行けば意味もなく大学受験の参考書コーナーをウロウロしたし、新しい参考書を見れば自分ののびしろを表しているようでワクワクした。

 

抽象的なものを形あるものに重ねるのって、なんだか気持ちが良くなります。三島由紀夫の『金閣寺』で主人公の溝口が金閣寺を燃やす描写なんかもそう。私は、自分の中に溜まった悪い感情と決別する際は、悪い感情を自分の髪の毛に重ねて、バッサリ切るようにしています。初めてそれを決行したのは、中学の修学旅行の帰り道。ホームシックになっている自分がなんとなく気持ち悪くて、千円カットでショートヘアにしてから帰宅した。最近だと、会社を辞めた時。勤めていた頃は美容院に通う余裕なんてなくて、逃げ場のないストレスが心身に溜まっていくのを表すかのように伸びっ放しになっていた髪を、退職してすぐに切り落とした。まあ、髪を切ったからと言って何かが変わるわけじゃないけど、とにかく気持ちが良かったです。Wikipediaのコピーも、大学受験の参考書も、バッサリ切り落とした髪の毛も、全部“私らしさ”を構成するモノ・コトであって、他人から見たら無駄なモノ・コトかもしれないけど、私から見たら愛しいモノ・コトなんです無駄なものに意味を宿していくって、こういう感じなんじゃないかな。それを言いたかっただけなんですけど、なんだか、しっちゃかめっちゃかになっちゃいましたね。すみません。いつか気分が向いたら書き直すかも。

 

「無駄」という呪文

私には嫌いな言葉があります。「無駄」と「しょうもない」です。大学生の頃、親しい関係にあった超バイヤ人が、口癖で毎日のように吐いていた言葉。ちなみに、超バイヤ人とは自己愛性PDを持つ人間のことで、戦闘狂のような彼らを私が勝手にそう呼んでいるだけです。「オメエはサイヤ人か!」って言いたくなるようなヤバイ人間が、この世には存在するんですよね。ラディッツみたいな、笑えないサイヤ人「無駄」が口癖になっている人間に出会うまで、その言葉を意識したことがなかったけど、簡単に口にしてはいけない呪いのような言葉だと思います。もちろん、無駄だと思うこと自体は各々の自由ですがね。

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「無駄」という言葉は、理由も言わずに相手のことを否定できる卑怯な言葉だと思うんです。「無駄」という言葉には必ず言い換えが存在します。“言い方”ってやつですね。例えば、遠回りをしている人がいたとします。道草を食いたくて遠回りしているかもしれないし、好きで遠回りしているわけじゃないのかもしれない。好きで遠回りしているわけじゃないけど、遠回りしている事実と向き合っている最中かもしれない。そんな人に対して、「あなたのやっていることは無駄だ」と言うのは、親切でも何でもありません。そこに至るまでの過程とか背景とか、その人の辿って来た軌跡が描かれたページをビリビリに破り捨てて、まっさらなページに取り残すようなものです。むしろ身動きが出来なくなります。「こっちの方が近道になるけど、どう?」とか、他にも言い方はたくさんある。あえて他人の人生に首を突っ込むんだったら、「無駄」という言葉は選ぶべきじゃないと私は思います。「無駄」の一言で片を付けるのは、“言い方を考えて相手を傷つけずに伝える”という努力を怠るってことです。

「無駄」っていうのは感想と同じです。無駄の範囲は人によって異なります。誰かにとって無駄なものと、自分にとって無駄なものは、必ずしも重なるとは限らない。あたかも一般論みたいな言い方をして「無駄」という言葉を使うのは、誤用です。それはただ、自分の価値観を相手に押し付けているだけです。つい熱くなってしまったけど、私がここで言いたいのは、「無駄」が口癖になっている人間への非難ではありません。「無駄」という言葉で“自分らしさ”を否定された側の人に、「その言葉は、発した側の感想かつ価値観に過ぎないから、気にしなくてもいいんだよ」って言いたいんです。

 

理詰めというものは、正しい時ももちろんあるけど、ほとんどはパフォーマンスみたいなものです。マジックと一緒。明らかに間違ったことを言っているのに、明らかに正しいように聞こえてくる。そういうトリックです。そのことに気づくまでは錯覚に陥りますが、タネが明かされたら、大したことなくて拍子抜けします。こういう理詰めマジシャンは、「無駄」という言葉も頻繁に使うわけです。あたかも一般論かのように、相手のことを「無駄」という一言で否定します。否定された側は、自分がおかしいんだと錯覚する。だけど、「無駄」っていうのは理詰めマジシャンの感想かつ価値観であって、一般論では全くもってないんです。マジックの手法は他にもたくさんあります。論点のすりかえとかね。理詰めマジシャンって、特に論点のすりかえに関しては、感心してしまうほどテクニックに優れているんですよ。きっと、その道の“いろは”に当たるんでしょうね。例えば、二次関数の話をしている時に、彼らは三次関数を引き合いに出すんです。三次関数の解答、それ自体に関しては正しいことを言っているから、話しているうちにどこがおかしいのかわからなくなってきて、指摘できなくなる。そうやって惑わされていくんです。さらに上級マジシャンの手にかかれば、一つの会話の中で論点のすりかえが何回も行われて、気づけば“おかしい”のミルフィーユが出来上がります。そうなればもう指摘するのは不可能です。良くても水掛け論止まり。

『ままならないから私とあなた』でも、薫は典型的な理詰めマジシャンです。私自身、薫のマジックのタネに気づくまで、まあまあ時間がかかった。リアルタイムでは言い返せないです。雪子と薫は幼馴染で親友という関係性なので、二人で仲良くしていましたけどね。個人的に、理詰めマジシャンとか、超バイヤ人とか、相手を否定して自分の価値観を押し付けてくるタイプの人間とは話すだけ無駄だと思います。私がこの世界で唯一無駄だと思うことです。

 

 

最後に

「相手を否定する言葉を発するのではなく、従うかどうかは別にして、自分と違う考えの人間がいるということを受け入れる。」主人公の雪子は、相手が大切にしているものを自分の中の正しさで排除しないだけの想像力が身に着いたと言っていました。言い換えればこれは、薫が雪子にしてきたことの裏返し。つまり、薫は雪子を否定したり、雪子の考えを自分の考えとは違うからと言って排除したりしてきたってことです。それを踏まえて、雪子は、自分がされて嫌だと感じたことは他人にはしないって精神なんですよね。でも、薫とか、理詰めマジシャンとか、超バイヤ人とか、彼らと話すのは無駄だと思うけど、彼らと話したことは無駄じゃなかったと思うんです。その経験のおかげで、“自分がされて嫌なこと”に気付けたわけだし、“他人にはしないようにしよう”って気を付けることも出来るようになったわけですから。

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ひとりごとより。/『少女は卒業しない』朝井リョウ