言霊

ごきげんよう、ひとりです。今回は「言葉」をテーマに話していこうと思います。

言葉は取扱注意のいわば劇物です。薬にもなるし毒にもなります。私は言葉を、人間よりも何次元か上の世界にいる生き物だと思っています。自分は薬として渡したつもりでも、相手には毒となってしまうことだってある。忘れたくないのに忘れちゃう言葉、忘れたいのに忘れられない言葉。その不気味な生態にゾッとします。本来であれば、車を運転するのと同じかそれ以上に気をつけないといけないし、責任だって発生します。それなのに免許はないし、赤ちゃんから老人まで誰もが扱う。日本には表現の自由がありますからね、最終的には個人のモラルによるところが大きいです。ただ今一度、言葉の生態について整理しておきたいと思いました。

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ちなみに、私はテスト直前に詰め込んだ単語などを、試験開始と共にまず問題用紙にメモしていました。まあ基本的にテスト直前は何も見ないようにするタイプでしたが。焦っちゃうからね。忘れたくないのに忘れちゃいそうな言葉は、何かに残しておくといいです。安心して忘れることができます。そして、頭の容量に空きが増えます。

 

生産と消費

生産と消費って単語が並ぶと、まず食べ物が思い浮かびますよね。スーパーに行って農家さんの顔写真を目にすると、思わず尊い気持ちが湧き上がります。生産者って偉大だなって。でも一般消費者も実は、生産者そのものとして存在しているんです。じゃあ何を生産しているかって、それが「言葉」です。随分回りくどいですね、すみません。

私たちはみんな毎日毎分毎秒、いつでもどこでも言葉を生産します。それと同時に消費もする。気づけばネット上で、飲んで食べるが如く、他人の言葉を消費していました。どうりで、最近胸焼けがするわけです。善意か悪意かもわからない、顔も名前も知らない。そんな得体の知れない言葉がいっぱい体の中入ってきています。知らず知らずのうちに毒をも摂取しているかもしれません。欲していないのに次々に供給されるものですから、それを消費しようとする自分の無意識にストップをかけないといけませんね。

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ところで、backnumberの『青い春』って曲があるんですけど。「大人になってからまあいいやが増えたけど、それは考えさせないようにと企む誰かが、空気に変なものを混ぜているからじゃないか」って歌っている歌詞があります。SNSって得体の知れない言葉が何故か垂れ流しになっているじゃないですか。もういいやってなって、まあいいやってなる私は、確かに思考停止しています。言葉を“見ない”“受け取らない”という努力も必要になってきますね。

 

ドッジボール

言葉を受け取る上で、ドッジボールが理想的だと思います。パシッと受け取るか、サッと避けるか。特に言葉を避けるのって難しいですよね。下手したら不意にぶつけられて怪我をしてしまいます。でもね、常に穏やかな人に「どうしてそんなに穏やかでいられるの?」って聞くと、「言葉を受け取らないようにしているからだよ」って返ってくるらしい。どうしたら言葉を受け取らないって出来るんでしょうね。私はパシッと受け取るか、ドンッてぶつけられるかしかないです。これはもう人生の課題です。

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こういうのを根に持つって言うんですかね。だけど、嫌な記憶を忘れられないのは、同じ失敗を繰り返さないためとも言いますよね。うーん。言葉って、生きているうちにたくさん吸収します。それはもう、宇宙のチリほど数多です。その中で取るに足らないほど小さな、でもふと思い出すと一日中ハラワタが沸々するような、そんな消化不良の言葉がある。知り合い未満の人間による失礼な言葉。きっと知り合い未満という関係性で言われるから、印象に残るんだと思います。誰かに話すほど大したことでもないから、一人で悶々とする。なんであの時の自分、ヘラヘラと流したんだろうって。逆を言えば大人の対応が出来たってことなのかな。これ、まんまと言葉を受け取っていますよね。

言葉を受け取らないってやっぱり人生の課題だねっていう特にオチもない話ですけど、なんとなく生物濃縮を思い出しました。生物濃縮とは、普通なら消化して体外に排出するところを、濃度が高い故に分解できず体内に残留させてしまうこと。生体内蓄積とも言います。簡単に言えば、悪いものが体に留まり続けるってことです。まさにそれが言葉として起きています。自分が失敗したわけじゃないから反省のしようもない。早く忘れたいですね。

 

承認欲求

昨今SNSでの言葉が矛となって人を突き刺し、ひどく悲しいニュースになって流れてきます。それも一度とならず何度も。まるで『花より男子』の赤札みたい。赤札貼られているのを見つければ、みんなして卵を投げつける。

個人的に、特定出来る誰かに対して、追及するようにネットに書き込むことは絶対にありません。以前も言いましたが、自分の口を制する者がこの世を制すと思っています。ですが、やっぱり思うことはあります。思っているだけ。自分の中で完結していれば、それは自由です。なんでみんな、素人も玄人も、ネットに書いちゃうんだろうって。不特定多数の人に承認してもらえない言葉は価値がないのでしょうか。違うと思う。ノートや日記に書いても、それは自分の言葉に違いない。誰かと共有するにしても、ネットじゃなくても出来ます。百歩譲ったとして、自分と同じ意見の人が先にネットで物申しているはずだから、それで満足すればいい。なんでわざわざリスキーなことをするんだろう。

そうは言っても、誰かを守りたくなる時もあるし、誰かに間違いを認めてもらいたい時もありますよね。私だって書き込まないけど、同じ意見を目にすれば安心を覚えます。でもこれってなんだかいじめみたいだし、私はいじめの傍観者みたい。矛先が変わるだけでやっていることはいつも同じ現代の魔女狩りです。どんなに相手が悪くて、どんなに自分が正しくても、ネットに流れた言葉は矛となってまた誰かを突き刺してしまうかもしれない。そうなれば今度は自分が加害者です。悪者です。第三者が加勢すればそれはもういじめやリンチの類になります。そんなに正義感に溢れてエネルギーが有り余っているなら、全国の学校を回って世のいじめっ子たちに制裁を加えればいい。でもそれをする人はいません。やっぱりネット上だから起こることなんです。

じゃあどこまでが言って良くて、どこからが悪いのか。それは私にもわかりません。わからないから、書き込まないんです。もしわかりやすい基準を設けるなら、「自分や自分の大好きな人がされていたら嫌なことはしない」ですかね。加害者になりそうな時も、被害者になりそうな時も、自分を制することが出来ない時は一旦ネットから離れた方がいいですね。

 

 

最後に。もし私がタイで炎上してタイ語で罵倒されたとしても、きっとそこまでダメージは大きくありません。それは英語でもそうだし、日本の外での出来事なら同じなんだと思います。でも日本にいて日本語でいろんな言葉が飛んできたら怖いです。なんででしょうね。

ひとりごとでした。